公衆に向けられた映像ではどの程度の描写まで許されるんだろう?
テレビアニメ版ブラック・ジャックがこの秋放映開始となるが、手塚眞氏によればファミリー向けに「血が一滴も流れない」外科手術シーンとなっているそうだ。
放送業界内の自主規制とか放送倫理に関わることなのか、製作者側の一般視聴者への配慮なのか不明だが、「血が一滴も出ない」というのはどうしても不自然に思えてしまう。
血とバイオレンスは同列に語られることが多いが、多くの方がご存知のようにブラック・ジャックは残酷描写を売り物にした作品ではない。
手術中に血が流れることは極めて自然なことなのに、一般向けに公開するとなるとタブーになるのかな?
過去にさかのぼると、ハリウッドの全盛期に作られた映画は不自然そのものだった。
銃撃戦で人が撃たれても、「うっ!」とか呻いて胸をおさえて倒れるだけ。
血なんか一滴も流れない。
当時はハリウッドに自主規制コードが存在し、暴力の描写や扱って良いテーマ等に細かな制約があったそうだ。
結果ハリウッドはどうなったか?
↓
倒産しちゃいました!
50年代~のカウンターカルチャーの波を読みきれなかったハリウッド。
潔癖で現実離れした能天気ミュージカル。
時代錯誤になりつつあった開拓時代西部劇。
ユダヤ資本に配慮した聖書スペクタクル。
そんな作品を撮り続けた挙句が、老舗メジャー映画会社の崩壊だった。
リアルなテーマや描写を作品に盛り込めば良いという訳ではない。
映画黎明期に『月世界旅行』が製作されたように、夢やロマンを映画の中に求めることは、人間の根源的な欲求なのかもしれない。
しかし、現実を無視し続け、時代の流れを見誤った伝統的ハリウッド体制は崩壊した。
この結果は重要なことを意味する。
アメリカ国内に充満していた「目を背けてはならない現実」を国民は知りたがっており、
映画という仮想現実でもいいから共有したかったのだと思う。
泥沼化し収拾のつかないベトナム戦争。
ニュース映像で家庭に配信される米兵やベトナム人の死体。
全米各地で広がる黒人暴動。
キリスト教にカウンターを食らわす東洋思想やインド哲学の広がり。
それらを信奉しコミューンを形成するヒッピーの増殖。
ロックをはじめとするポップカルチャーの社会への影響力の巨大化。
LSDの普及とドラッグカルチャー。
チャールズ・マンソンにシャロン・テート事件。
身近にスリリングな現実が存在しているのに、
無味無臭な純粋培養されたハリウッド・ミュージカルを観ている場合じゃないだろ!
てな具合にハリウッドは一気に支持を失い転落していった。
では、現在の映像メディアの表現手段はどうなのか?
昨今はCGが発達し、かつてなら撮影不可能なアングルや演出方法が可能になっている。
SFやファンタジー以外の映画にも盛んにCGは導入されている。
じゃあ、迫力は増して説得力は生まれたのだろうか?
否。
すでに多くの方が指摘しているようにCGの乱用により観客はしらけはじめている。
単なる自動車のクラッシュシーンですらCGで作成し派手な描写にしてしまう。
でもそこに介在する人間の存在は描かれていない。
描く必然性が無いからかもしれないが、
あまりにもド派手な演出は、映像の凄さは伝わっても凄すぎて観客にとっての『仮想現実』とは成りえない。
「迫力あるなー」で終わり。
かつて“スプラッタームービー”が盛んに作られた時期があった。
従来のオカルト映画とは一線を画す、恐怖や神秘性よりも残酷描写を重視した映画ジャンルだ。
吹き出る大量の血しぶき。
血まみれの内臓。
悪魔や悪霊よりも猟奇的な殺人鬼。
それらは新鮮な表現手段であり、刺激に飢えていたホラー映画ファンに喝采をもって受け入れられた。
しかし、次第に残虐な描写に重点を置くあまり映画はバランス感覚を失ってしまう。
練りに練った残酷場面は演出過剰でギャグとしてしか観れなくなったから。
コミックでも同じことが言える。
かつて『北斗の拳』は少年漫画に衝撃を与えた。
壮絶な格闘シーンと破壊される人体の描写の凄まじさ。
ストーリーも魅力的だったが、成功の最大の理由は画だった。
人気とストーリーがピークに達した頃と同時に、残酷描写も頂点を迎えた。
しかしそれが限界だった。
ストーリーの行き詰った北斗の拳は残酷描写のてんこ盛り状態となっていった。
ひたすら無意味に繰り返される戦闘。
飛び散る血しぶきと肉片と内臓。
そこには感情移入する余地は無かった。
現実を超えすぎた“仮想現実”はギャグ以下だということに観客は気づいている。
タランティーノのように“血しぶき”を確信を持って演出するなら観賞に耐えうるが、
スピルバーグの得意とする悪趣味な残酷描写は観客を置き去りにする。
血はなぜタブー視されやすいのか?
かつて某格闘アクションゲームのキャラクターがゲーム内で流す『赤い血』が、「残酷」で「子供の暴力的な衝動を目覚めさせかねない」という理由で『緑の血』に塗り替えられたことがあった。
これこそ寒気のする現実だ。
人間同士が戦う、あるいは殺しあえば多くの血が流されるのは避けられないのに。
キル・ビルvol.1のハイライトである料亭での殺陣シーンでは大量の血が吹き出ている。
幸いにも?日本公開ではオリジナルな描写が観賞できたが、
アメリカ公開版ではそのシーンを「モノクロ」で処理して放映したそうだ。
これは何をいみするのか?
短絡的だが先ほどの格闘ゲームといいキル・ビルといい、“赤い血はタブー”なのだ。
血が赤いことが悪なのであり、人間から流れ出る赤い液体は許されないのだ。
相変わらずアメリカはイラクなど戦闘地域からの情報に対し報道管制を布いている。
CNNやFOXで放映されるニュースで、イラクの傷ついた人々は報じられない。
傷ついた自国の兵士の姿も登場しない。
戦意高揚に水を差すからというのが定説であり、おそらくそれで間違いは無いのだと思う。
情報を統制することで戦争の大儀や世界情勢を捏造し国民の関心を逸らしているのは犯罪である。
しかし、映像表現というものに限定して戦争報道を考えた場合、何が問題なのか?
何をそんなにアメリカは恐れているのか?
第三者の流す“赤い血”が、視聴者の体内の血液に反応し何らかの感情を呼び起こさせるからか?
国家規模の情報操作をもってしても制御しきれない、
人間の内なる根源的な防御本能が機能することなのか?
現在のアメリカは防御本能を他者への攻撃として正当化している。
しかし、その防御本能が最大公倍数である人類の「種の保存」として機能するならば・・・
戦争続けている場合じゃないことにみんな気づくでしょ?
『人類の英知』に目覚めさせない為に米国メディアも必死なんだな。
ところで馬鹿みたいに血が飛び散らなくても、
CGを湯水のように使用しなくても、
暴力の香りがプンプン漂う映画の製作は可能だ。
低予算でもそれは可能である。
『マッド・マックス』の存在をみんな忘れてはいないか?