スカイ・クロラ
押井守監督の最新作「スカイ・クロラ」を観て感じたことをそのまま。
この映画がどんな風に評価されるのかわかりませんし、観た人それぞれの評価があって当然です。
私の率直な感想としましては、かなりポジティブなメッセージと受け止めました。
そこで、私なりの感想を述べてみたいと思います。
舞台設定は完全な平和が実現された世界。
国家間の戦争は消滅してしまったが、
巨大企業によって管理された“ショー”としての戦争は依然として続いている、けっして戦争の無くなることのない世界。
大規模な作戦ですら、“ショー”に盛り込まれた大きな見せ場でしかない。
戦闘機のパイロットとして戦っているのは“キル・ドレ”と呼ばれる子供達。
彼らは遺伝子操作によって生み出され、思春期の年代の姿のまま老化することなく、殺されなければ永遠に生き続ける存在。
死んだとしても、誰かの記憶や経験、癖、そしてぼんやりとした感情を受け継ぎながら、終わらせてはいけない戦争の道具として、戦闘機に搭乗することを繰り返す。
大人が作り出した戦争の中で戦わされ続ける、キル・ドレの戦時下での生活が淡々と映画では綴られている。
空戦シーンは圧倒的な迫力で観る者に迫ってくる。
極限状況下のパイロットの描写は凄まじく、息苦しささえ感じてしまう。
戦闘中の緊張感、敵機に捕捉された瞬間の絶望感の描写は見事だ。
しかし、過去の映画の空戦シーンで表現されてきたような爽快感は皆無だ。
敵のエースパイロットとして“ティーチャー”が登場するのだが、倒さなければならない存在、越えなければならない存在等の、「ライバル」や「宿敵」としては描かれていない。
ストーリーの中で、ティーチャーは重要な意味合いを持ってくるのだが、空戦シーンにおいては敵のエースパイロットでしかなく、キル・ドレにとって脅威ではあっても戦うことの理由付けにはされていない。
あくまでも戦時下における、一つの戦闘として描かれており、それ以上の意味を作り手側は描こうとしない。
戦闘が行われれば、何人かのパイロットは死に、生還したパイロットにも死ぬかもしれない次の出撃が待ち構えているという現実を、ひたすら観客に突きつける。
キル・ドレ達はその過酷な運命を、生活の一部として平然と受け入れている。
カタルシスを生むことなく静かにストーリーは進行する。
大人になることはないが、キル・ドレ達は内面的には十分に大人である。
酒も飲めばタバコも吸う。
平時には娼館に通い、娼婦を買うこともする。
キル・ドレを普通の存在として描く上で、キル・ドレの悲劇性は必要以上に語られることはない。
ブレードランナーに登場するレプリカントのように、この世に自分が存在することの意味を求めようとしたり、生に執着し、もがき苦しむ姿は現れない。
非常に空虚な日常を送るキル・ドレ。
戦うことに対して、「それが仕事だから」と深追いをしようとはしない。
自己を認識することを、あえて拒否するかのようなキル・ドレであるが、拒否することこそがキル・ドレにとって運命を受け入れ、自己と向き合うことなのかもしれない。
一線を越えて、自分の存在意義を問い始めた時に、キル・ドレを待っているのは苦悩であるのだから。
だからユーイチと合流したミツヤは苦悩する。
キル・ドレには自分の記憶が無い。
自分は何のために生まれてきたのか?
自分がキル・ドレでは無い可能性はないのか?
自分は誰かの記憶を受け継いでいるだけではないのか?
自分はなぜ戦い続けるのか?
死ぬことのみが、自分に許されている自己決定権なのかと。
絶対に終わらせてはいけない戦争の切り札の一つとして、ティーチャーは存在する。
戦局の均衡を保つために絶対的な能力をティーチャーは発揮する。
キル・ドレがティーチャーに勝利することは、ありえないことであり、勝てないということを疑問に思うことすら許されないこととされている。
ティーチャーはキル・ドレではない普通の人間。
大人の普通の男。
永遠に繰り返される退屈な日常ではあるが、キル・ドレ達は戦い続ける。
なぜなのか?
それは、人為的に生み出され、戦うことを運命付けられたキル・ドレではあるが、彼らには生き続けることを追い求めることが可能だからだ。
空戦から帰還することでキル・ドレは生を実感することができる。
たとえ過去に何度も繰り返されたことであっても、好物を食し、ビールを飲み、お気に入りの娼婦を抱くといった、かりそめの享楽に浸った瞬間は、自分が存在していることの証明。
キル・ドレが置かれている状況を考えれば、何度目かの人生かもしれないが、生きていることを実感できることこそが、唯一の可能性であり、自分を信じることの手段。
死ぬかもしれないが、空戦からの生還を繰り返すことで、何かが変わるかもしれないという淡い希望。
どうしようもない現実から逃れることは尋常なことではない。
しかし、絶望してしまっては全ての可能性を閉じてしまう。
何か可能性を信じて生きていくことはできないものなのか?
生を実感できる瞬間があるのではないのか?
最後の戦いで、ティーチャーに立ち向かおうとするユーイチは、ミツヤの援護を拒否する。
『これは俺の戦いだ』
ティーチャーには勝てないかもしれない。
しかし、戦わなければ勝てない。
ティーチャーとスイトとの間には因縁が存在する。
自分はスイトを愛し始めている。
戦うことで何かが変わるかもしれない。
ティーチャーに勝つことで、戦争そのものの意味を問い直すことができるかもしれない。
いや、それ以上に自分の運命と正面から向き合うための、避けることのできない戦いであり、自分に課せられた運命は自分で決したいと思うからこそ。
ユーイチが、おそらく初めて見出した、自分の存在意義を確認できるかもしれない瞬間を、他人に邪魔をされたくはない。
ティーチャーとの戦いは、与えられた戦いであってはならないのだ。
そしてスイトは待ち続ける。
何人ものパイロット達が自分の前を通り過ぎていった。
死んでは生まれ変わり、自分の前に現れ、死をもってしても安住を得られないキル・ドレの運命を見つめ続ける、退屈な日常が繰り返される。
しかし、永遠に繰り返される退屈な日常であっても、いつも同じとは限らないはずではないのかと、信じたいからこそ。
どこかで何かが変わるのではないのか?
ジンロウ、またはユーイチが、生まれ変わり続ける限り、スイトは彼らを愛し、苦悩することを繰り返すのだろう。
だけれどもスイトは信じて待ち続ける。
運命を切り開こうとする何人目かのユーイチが、何らかの答えにたどり着こうとすることを見守るために。
それがスイトにとって儚い希望であっても、信じることだけが希望だとすれば、待ち続けるしかないのだ。
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